「支援ありがとう。じゃ戦争に行ってね。どうせ年金は無しだから」: ずくなしの冷や水

2018年02月05日

「支援ありがとう。じゃ戦争に行ってね。どうせ年金は無しだから」

見出しは次のツイートをもじりました。

※ Koichi Kawakami @koichi_kawakami氏の2018/2/3のツイート
籠池氏や山口氏に対する安倍首相の薄情を指摘するtweet多数。彼の薄情は「テロとの闘い」や「北朝鮮への圧力」を主張し後藤氏や拉致被害者の方々を顧みない態度等全てに通じる。安倍首相を支持する方たちにはそのうち「支援ありがとう。じゃ戦争に行ってね。年金は無しね」と言われることを伝えたい。

・・・引用終わり・・・

くがみちさんのコメントに関連して書きましたが、今の日本の60代から70代の老人男性、特に一定の学歴のある者は戦って勝ち取ったものでもないのに自尊心だけは強いのです。

自分自身と子供の基本的人権が否定されようとしているのに現実を認めようとしません。

放射能地獄に落とされて緩慢な死が忍び寄っていることも認めようとしない。

それゆえ、そのようなゴイムの地位に触れると強い拒否反応を示します。

シリアやイラクの市民の苛酷な境遇、イエメンの市民の悲惨な境遇は、これらの地域に封じ込められている現象ではありません。日本は、戦後ずっと、現在のイラクのような状態が続いているのです。

占領され、言われるがままになっているからテロリストを送り込んでいないだけです。

・・・・・・
コメントをこちらに掲げます。

※ くがみちさんから
協調性重視の通知簿評価、SNSが軸の交友関係にどっぷり浸かっていると、多数派=正論、という観念が恐ろしいほど定着してしまうみたいです。
若年層と話していると痛感します。

ですので彼らに国会答弁を少し視聴してもらうと
(学力の高い子たちでさえ集中力が途切れやすく、長時間視聴できない)
“安倍さんをよってたかって袋叩きにしている”ように映るらしいです。

答弁の文脈に傾聴し、議員たちの様子を注視していれば、決してそんなことはないことがわかるはずなのですが、そういうリテラシーまでも劣化しているようです。

本質的なことを継承させられなかった、我々大人たちの責任でしょう。

※ ずくなし
私が放射能の危険性を知人友人に説明してわかったのは、高学歴の人ほど抵抗することです。
偉い人、社会的な地位、経済力が優れた社会的勝者は何も問題にしていない、だから自分も問題にしないと答えた友人には驚きましたが、そこまで口にしなくても同じように考える人が多いんだと思います。
その友人の社会的地位が高い弁護士は肺がんが転移して亡くなりました。
一方で、別に高学歴ではないが、普通の理解力を持つ人は、どこで聞いたのかわかりませんが、福島第一原発事故後山菜取りを止めたり、できる範囲内で被ばく回避をやっていたりします。
そういう人は私の説明をすんなりと受け止めてくれます。
自分が相対的に支配階級に近い、あるいはそれに近づきたいと考えている人はかたくなに拒否する傾向がありました。

※ ぷうさんから
若い人たちの見方は、ある意味、正しいかもしれません。私の見るところ、この間の質疑応答でも、山本太郎さんの精神年齢は、実年齢相応だし、これまでの言行から分析すると、コールバーグの道徳性の発達段階に照らすと、最終段階まで行っているかもしれない。

対する安倍晋三さんの精神年齢は、認知発達の観点から見ると、0〜1才の乳児期と、小学校低学年の児童期が混在していて、どちらをメインと見るかで迷うところです。

ものが何かの陰に隠れて見えなくなると、もう存在していないと認識してしまうのが乳児期の認知発達段階。その場しのぎの嘘をつくのが、児童期の認知発達段階。それは良い悪いではなくて、その年齢においては必ず通りぬけて、さらに論理的な思考や抽象的な思考、さらには自己中心性から他者理解へと発達するための踏み石と考えられています。

したがって、認知発達段階的に大人の山本太郎さんと、赤ん坊か良くて小学校低学年レベルの安倍晋三さんが議論すると、当然、大の大人が子供をイジメているか、叱っているように見えてしまうわけです。

というわけで、問題は大人の格好をした乳児あるいは児童を、いつまで日本のトップに据えておくのか? ということにあります。身体的には大人に見えても、感情的(共感能力的)には、思考的には、社会的には、霊的には、大人であるとはかぎりません。そして、特に共感能力的に未発達な者が権力を握れば、当然、冷酷かつ残酷なことを自己中心的な動機でやりかねません。

安倍さんの周囲で、その幼児性に付け込んで利用している人たちも、そこを見誤れば、真っ先に切られるということですね。
心理的な発達の停滞と人格障害の間の関連も指摘されていて、その関連があるから逆にカウンセリングによる人格障害への対応も可能だと言えるのですが、国のトップにそういう人物を据えてしまうと、国全体、国民全体が機能不全家族化してしまい、同じような国民を再生産してしまう。

そういう人類史上始まって以来の社会実験を行っているのが、この日本という偉大な国なのです。放射線被曝の全国民を対象とする影響調査実験と合わせて、人類史に残る教訓を世界に対して残すはずです! 自らは滅びて。

・・・以前に掲げた写真・・・



・・・・・

※ よんたさんから
日本で高学歴の人というのは、今ではバカの異名になっていると感じています。同級生に東大の教授がいて、心配なので福島原発事故の後、東京にいるのはヤバイよと何度も伝えたのですが、馬の耳に念仏状態でした。表向きは話を聞いているようにしていますが、実は右から左、こういう問題は海外の学者に聞くのが一番だからね、と意味不明なことを言われ、もう何も伝えないことにしました、その後、大阪にいた奥さんを呼び寄せ、子どもさんも関東の大学へ行かせ、今も東京で暮らしています。

たぶん東大の教授というのはまだまだ学者の格としては、アリガタサ、エラサ、権威というシロモノのヒエラルキーのトップということになっているのでしょう。今更その地位を無くせるものか、という心情で、その地位を脅かすヨウ素、あ、いや要素には一切耳を傾けないと固く決意しているのだと思います。

同時に総理大臣といえば、日本で一番エライ人だとまだ多くの人が思っているかもしれない、という点で日本の精神性は非常に未熟だと感じています。どこをどうほじくってもこの人物に何の品格もまともな人格も信用もありません。そんな簡単なことさえ多くの人が見抜けないでいる、この現実こそが日本の国難です。アレが国難というより、コレをまだ総理ケイゾクさせ続けているという状況そのものが国難です。

今後、どのような過程を経ることになるか分かりませんが、日本に住む多くの人たちが病み、さらに精神性が劣化し、病死や突然死が増え、社会的機能がますますさび付いていくことは確実です。日本終了が既定路線となっているのですが、この現実に対する危機感はまだまだ乏しいようです。

命あっての物種、というのが今の現実に最も当てはまる言葉になってしまいました。どこまでリスクヘッジできる人生を送れるかどうか、個々人の行動選択で分かれていきますね。選択肢は非常に限られてきましたが。

※ ずくなし
よんたさんの同級生の東大教授の方、まともなことをおっしゃっているではありませんか。「こういう問題は海外の学者に聞くのが一番だからね」はそのとおりです。日本には、バンダジェフスキーも、クリストファー・バスビーも、アレクセイ・ヤーブロコフも、ジョン・W・ゴフマンもいませんから。ですが、日本の学者が意見を聞き学んだのは、米国欧州を中心とした被ばくによる健康被害を軽視する立場の学者だったのです。

※ よんたさんから
あ、そうでしたね。バンダジェフスキーさんとか、カルディコットさんとかたくさんおられましたね。ただ、この教授さんは、矢ヶ崎さんのことを紹介したときに丸で無視され、その後に海外の学者に〜の言葉を出されたもので。ちょっといやな感じがしたことを覚えてます。

それにしても日本の学者さんは、見事に、日本にせよ海外にせよろくでもない人ばかり選別するのですね。というか、自分の地位が維持できそうなルートを選別するハナを持っているのでしょうか。ほとほと寒心します。

※ ぷうさんから
結局、もう手遅れで、処方箋の書きようがない?! という感じですね。王様は裸! じゃなくて、小学生だ! と指摘したところで、それを理解する能力さえなかったら、意味がないですからね。

被曝の問題も、現政権の問題も、日本国民すべてにとっての踏み絵であり、試金石だったような気がしますが、このままではほとんどの人が落第? 落第したことによる利益と損害は、自分自身が受けることになるので、ある意味、公平と言えるでしょうが。

しかし、これらの課題に対して、正確な理解をし、適切な行動をするために必要だった資質とは、いったい何だったのだろうか? と考えるのですが、それが今もってわかりません。

個人的には、人間を身体、感情、思考、霊性(魂)からなる多層的な存在として捉えています。さらに、自我というワーキング・メモリーの、他者理解の社会的な能力と、自己理解の自己洞察的な能力のバランスということも考えます。

そして、これらが、バランスよく統合的に発達するためには、どんな環境や援助が必要だろうか? という視点で、教育というものを考えてきました。

これらの要素のうち、どの能力が、先の踏み絵や試金石に直面して、適切かつ合理的な行動を導き出してくれるのか?

実を言えば、霊性すなわちスピリチュアリティの発達が、大きな要因なのだ! と言いたかったのですが、現実を見ると、どうもそうではないんですよね。スピリチュアルな?情報を発信されている方々の多くは、いまだに首都圏にお住まいだったり、東京でセミナーを開いたりしておられる。

中には、集団瞑想の力で放射能汚染を浄化できる、という方もおられて、実は私もその可能性には期待しているのですが、浄化できるから住み続けても大丈夫、食べ物に気をつけなくても大丈夫?! となってしまうと、さすがについていけません。

そういう意味で、霊性の発達というのは、被曝回避やファシズム政権への反対といった現実的な行動には結びつかないのだなあ?! ということを実感するようになりました。

それなら、いったい不都合な真実を見抜き、現実的な対応を行うために必要な資質とは、いったい何だったのだろうか? むしろ、哲学的な懐疑の精神だったのか? あるいは、ピアジェの言う、感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の、すべての認知機能を統合的に運用する能力の有無だったのか? それとも、虫の知らせ的な直感が、その後の行動を決定づけたのか?

いや、根源的には、既存の世界を肯定しているのか? あるいは、否定して新しい世界を希求しているのか? という違いこそが、要因だったのかもしれません。その結論が最初にあって、後はその結論を補強し、弁護するための論理を展開し、行動を行い、その結論に当てはまる結果と解釈だけを、自分の周りに積み上げていく。

そして、その世界を肯定してくれる仲間は受け入れ、否定してくる存在は脅威に感じて、排斥する。そうして、世界が二つに分離して、とうとう相互の交流や理解も不可能な地点にまで到達してしまった

それが現状かな? と思ったりしています。そうは言っても、これから地球外的な要因が介入してくることでしょうから、その過程で自らを閉じ込めている認識的限界に気づいて、そこから脱するチャンスは訪れるかもしれません。ただ、チャンスを生かすのは、自分の気づきと勇気と意志だけでしょうね。

いや、もう手遅れなんですが、無駄骨と知りつつ、考えていることを書いてみました。個人的には、スピリチュアルを称する人たちの無関心、甘い認識に直面し、しかもそれを変えることができなかった! というのが苦い学びとなりました。身体的な健康に直結する問題、精神的あるいは社会的、経済的な健康に直結する問題から目を背けるスピリチュアリティって、いったい何なんだろう? いや、既存の宗教もそうなんですが、日本という国の精神性をも破壊した? いや、その正体を暴露した? という意味では、311も現政権も、究極の試金石としての機能を果たしたと言えるかもしれません。

※ ずくなし
「集団瞑想の力で放射能汚染を浄化できる、という方もおられて、実は私もその可能性には期待している」  えぇーっ!!
「集団瞑想」はすでにこのブログの読者が何年も続けてきたんですよ。議論しても、瞑想しても放射能汚染を浄化できなかった、だからどんどん読者が減ってきた。なるほどそういうことだったんですね。

ほとんどインチキまがいのことを言わないと、あるいは尻を叩く儀式をしたりしないと人は集まらないんですね。乳酸菌を薄めてシュッシュッもありました。

明日からスピリチュアルに変えてみようかな。

※ ぷうさんから
瞑想もピンキリというか、たくさんありすぎて何がなんだかわからない(゚ω゚?) ですからね。ただ、薬物の使用を除くと、意識そのものの変容に働きかける代表的な実践と言えますし、人間の存在性のようなものにアプローチする意味でも、ユニークな方法論ではあります。まあ、瞑想とは意識の科学である、と定義する方もおられますが。

で、瞑想が物理的な対象に対して影響を及ぼすかどうかについては、最近、ハーバードかどこかの研究で、長期にわたるマインドフルネス瞑想の実践で、DNAの構造が変化した? みたいことが報告されていました。

あるいは、古典的な研究では、TM瞑想を集団で行うことによって、特定の地域における犯罪発生率が有意に低下した、という結果も報告されています。集団瞑想の効果がうんぬんされる時には、この研究が引き合いに出されることが多いですね。

さて、それでは集団瞑想による除染? は可能なのか? これは、程度の問題もありますが、実際に実験をしてみないとわからないと思っています。ただ、その実験のデザイン、結果の検証が難しいですね。

まあ、瞑想についても30年くらい調べてきましたが、特に集団瞑想の効果については、まだまだ未知数のところがあって、いろいろな可能性については捨て切れないところがあります。

そういう効果を目指した時点で、達磨大師に怒られそうですが。いや、瞑想の世界は深いので、侮るべからずとしか言えません。ただ、本物はほとんど表には出てこないでしょうね。

※ ずくなし
除染は無理だけど、がんにならない瞑想はありうるのかもしれませんね。明日から「がんにならない瞑想の世界へ」に変えよう。中身同じでも看板に偽りありにはなりませんよね、
posted by ZUKUNASHI at 22:57| Comment(13) | 社会・経済
この記事へのコメント
協調性重視の通知簿評価、SNSが軸の交友関係にどっぷり浸かっていると、
多数派=正論、という観念が恐ろしいほど定着してしまうみたいです。
若年層と話していると痛感します。

ですので彼らに国会答弁を少し視聴してもらうと
(学力の高い子たちでさえ集中力が途切れやすく、長時間視聴できない)
“安倍さんをよってたかって袋叩きにしている”ように映るらしいです。

答弁の文脈に傾聴し、議員たちの様子を注視していれば、決してそんなことは
ないことがわかるはずなのですが、そういうリテラシーまでも劣化しているようです。

本質的なことを継承させられなかった、我々大人たちの責任でしょう。
Posted by くがみち at 2018年02月05日 13:25
私が放射能の危険性を知人友人に説明してわかったのは、高学歴の人ほど抵抗することです。
偉い人、社会的な地位、経済力が優れた社会的勝者は何も問題にしていない、だから自分も問題にしないと答えた友人には驚きましたが、そこまで口にしなくても同じように考える人が多いんだと思います。
その友人の社会的地位が高い弁護士は肺がんが転移して亡くなりました。
一方で、別に高学歴ではないが、普通の理解力を持つ人は、どこで聞いたのかわかりませんが、福島第一原発事故後山菜取りを止めたり、できる範囲内で被ばく回避をやっていたりします。
そういう人は私の説明をすんなりと受け止めてくれます。
自分が相対的に支配階級に近い、あるいはそれに近づきたいと考えている人はかたくなに拒否する傾向がありました。
Posted by ずくなし at 2018年02月05日 13:44
若い人たちの見方は、ある意味、正しいかもしれません。私の見るところ、この間の質疑応答でも、山本太郎さんの精神年齢は、実年齢相応だし、これまでの言行から分析すると、コールバーグの道徳性の発達段階に照らすと、最終段階まで行っているかもしれない。

対する安倍晋三さんの精神年齢は、認知発達の観点から見ると、0〜1才の乳児期と、小学校低学年の児童期が混在していて、どちらをメインと見るかで迷うところです。

ものが何かの陰に隠れて見えなくなると、もう存在していないと認識してしまうのが乳児期の認知発達段階。その場しのぎの嘘をつくのが、児童期の認知発達段階。それは良い悪いではなくて、その年齢においては必ず通りぬけて、さらに論理的な思考や抽象的な思考、さらには自己中心性から他者理解へと発達するための踏み石と考えられています。

したがって、認知発達段階的に大人の山本太郎さんと、赤ん坊か良くて小学校低学年レベルの安倍晋三さんが議論すると、当然、大の大人が子供をイジメているか、叱っているように見えてしまうわけです。

というわけで、問題は大人の格好をした乳児あるいは児童を、いつまで日本のトップに据えておくのか? ということにあります。身体的には大人に見えても、感情的(共感能力的)には、思考的には、社会的には、霊的には、大人であるとはかぎりません。そして、特に共感能力的に未発達な者が権力を握れば、当然、冷酷かつ残酷なことを自己中心的な動機でやりかねません。

安倍さんの周囲で、その幼児性に付け込んで利用している人たちも、そこを見誤れば、真っ先に切られるということですね。心理的な発達の停滞と人格障害の間の関連も指摘されていて、その関連があるから逆にカウンセリングによる人格障害への対応も可能だと言えるのですが、国のトップにそういう人物を据えてしまうと、国全体、国民全体が機能不全家族化してしまい、同じような国民を再生産してしまう。

そういう人類史上始まって以来の社会実験を行っているのが、この日本という偉大な国なのです。放射線被曝の全国民を対象とする影響調査実験と合わせて、人類史に残る教訓を世界に対して残すはずです! 自らは滅びて。
Posted by ぷう at 2018年02月05日 18:39
日本で高学歴の人というのは、今ではバカの異名になっていると感じています。同級生に東大の教授がいて、心配なので福島原発事故の後、東京にいるのはヤバイよと何度も伝えたのですが、馬の耳に念仏状態でした。表向きは話を聞いているようにしていますが、実は右から左、こういう問題は海外の学者に聞くのが一番だからね、と意味不明なことを言われ、もう何も伝えないことにしました、その後、大阪にいた奥さんを呼び寄せ、子どもさんも関東の大学へ行かせ、今も東京で暮らしています。

たぶん東大の教授というのはまだまだ学者の格としては、アリガタサ、エラサ、権威というシロモノのヒエラルキーのトップということになっているのでしょう。今更その地位を無くせるものか、という心情で、その地位を脅かすヨウ素、あ、いや要素には一切耳を傾けないと固く決意しているのだと思います。

同時に総理大臣といえば、日本で一番エライ人だとまだ多くの人が思っているかもしれない、という点で日本の精神性は非常に未熟だと感じています。どこをどうほじくってもこの人物に何の品格もまともな人格も信用もありません。そんな簡単なことさえ多くの人が見抜けないでいる、この現実こそが日本の国難です。アレが国難というより、コレをまだ総理ケイゾクさせ続けているという状況そのものが国難です。

今後、どのような過程を経ることになるか分かりませんが、日本に住む多くの人たちが病み、さらに精神性が劣化し、病死や突然死が増え、社会的機能がますますさび付いていくことは確実です。日本終了が既定路線となっているのですが、この現実に対する危機感はまだまだ乏しいようです。

命あっての物種、というのが今の現実に最も当てはまる言葉になってしまいました。どこまでリスクヘッジできる人生を送れるかどうか、個々人の行動選択で分かれていきますね。選択肢は非常に限られてきましたが。
Posted by よんた at 2018年02月05日 20:28
あ、そうでしたね。バンダジェフスキーさんとか、カルディコットさんとかたくさんおられましたね。ただ、この教授さんは、矢ヶ崎さんのことを紹介したときに丸で無視され、その後に海外の学者に〜の言葉を出されたもので。ちょっといやな感じがしたことを覚えてます。

それにしても日本の学者さんは、見事に、日本にせよ海外にせよろくでもない人ばかり選別するのですね。というか、自分の地位が維持できそうなルートを選別するハナを持っているのでしょうか。ほとほと寒心します。
Posted by よんた at 2018年02月05日 22:17
結局、もう手遅れで、処方箋の書きようがない?! という感じですね。王様は裸! じゃなくて、小学生だ! と指摘したところで、それを理解する能力さえなかったら、意味がないですからね。

被曝の問題も、現政権の問題も、日本国民すべてにとっての踏み絵であり、試金石だったような気がしますが、このままではほとんどの人が落第? 落第したことによる利益と損害は、自分自身が受けることになるので、ある意味、公平と言えるでしょうが。

しかし、これらの課題に対して、正確な理解をし、適切な行動をするために必要だった資質とは、いったい何だったのだろうか? と考えるのですが、それが今もってわかりません。

個人的には、人間を身体、感情、思考、霊性(魂)からなる多層的な存在として捉えています。さらに、自我というワーキング・メモリーの、他者理解の社会的な能力と、自己理解の自己洞察的な能力のバランスということも考えます。

そして、これらが、バランスよく統合的に発達するためには、どんな環境や援助が必要だろうか? という視点で、教育というものを考えてきました。

これらの要素のうち、どの能力が、先の踏み絵や試金石に直面して、適切かつ合理的な行動を導き出してくれるのか?

実を言えば、霊性すなわちスピリチュアリティの発達が、大きな要因なのだ! と言いたかったのですが、現実を見ると、どうもそうではないんですよね。スピリチュアルな?情報を発信されている方々の多くは、いまだに首都圏にお住まいだったり、東京でセミナーを開いたりしておられる。

中には、集団瞑想の力で放射能汚染を浄化できる、という方もおられて、実は私もその可能性には期待しているのですが、浄化できるから住み続けても大丈夫、食べ物に気をつけなくても大丈夫?! となってしまうと、さすがについていけません。

そういう意味で、霊性の発達というのは、被曝回避やファシズム政権への反対といった現実的な行動には結びつかないのだなあ?! ということを実感するようになりました。

それなら、いったい不都合な真実を見抜き、現実的な対応を行うために必要な資質とは、いったい何だったのだろうか? むしろ、哲学的な懐疑の精神だったのか? あるいは、ピアジェの言う、感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の、すべての認知機能を統合的に運用する能力の有無だったのか? それとも、虫の知らせ的な直感が、その後の行動を決定づけたのか?

いや、根源的には、既存の世界を肯定しているのか? あるいは、否定して新しい世界を希求したいるのか? という違いこそが、要因だったのかもしれません。その結論が最初にあって、後はその結論を補強し、弁護するための論理を展開し、行動を行い、その結論に当てはまる結果と解釈だけを、自分の周りに積み上げていく。

そして、その世界を肯定してくれる仲間は受け入れ、否定してくる存在は脅威に感じて、排斥する。そうして、世界が二つに分離して、とうとう相互の交流や理解も不可能な地点にまで到達してしまった。

それが現状かな? と思ったりしています。そうは言っても、これから地球外的な要因が介入してくることでしょうから、その過程で自らを閉じ込めている認識的限界に気づいて、そこから脱するチャンスは訪れるかもしれません。ただ、チャンスを生かすのは、自分の気づきと勇気と意志だけでしょうね。

いや、もう手遅れなんですが、無駄骨と知りつつ、考えていることを書いてみました。個人的には、スピリチュアルを称する人たちの無関心、甘い認識に直面し、しかもそれを変えることができなかった! というのが苦い学びとなりました。身体的な健康に直結する問題、精神的あるいは社会的、経済的な健康に直結する問題から目を背けるスピリチュアリティって、いったい何なんだろう? いや、既存の宗教もそうなんですが、日本という国の精神性をも破壊した? いや、その正体を暴露した? という意味では、311も現政権も、究極の試金石としての機能を果たしたと言えるかもしれません。
Posted by ぷう at 2018年02月05日 22:38
瞑想もピンキリというか、たくさんありすぎて何がなんだかわからない(゚ω゚?) ですからね。ただ、薬物の使用を除くと、意識そのものの変容に働きかける代表的な実践と言えますし、人間の存在性のようなものにアプローチする意味でも、ユニークな方法論ではあります。まあ、瞑想とは意識の科学である、と定義する方もおられますが。

で、瞑想が物理的な対象に対して影響を及ぼすかどうかについては、最近、ハーバードかどこかの研究で、長期にわたるマインドフルネス瞑想の実践で、DNAの構造が変化した? みたいことが報告されていました。

あるいは、古典的な研究では、TM瞑想を集団で行うことによって、特定の地域における犯罪発生率が有意に低下した、という結果も報告されています。集団瞑想の効果がうんぬんされる時には、この研究が引き合いに出されることが多いですね。

さて、それでは集団瞑想による除染? は可能なのか? これは、程度の問題もありますが、実際に実験をしてみないとわからないと思っています。ただ、その実験のデザイン、結果の検証が難しいですね。

まあ、瞑想についても30年くらい調べてきましたが、特に集団瞑想の効果については、まだまだ未知数のところがあって、いろいろな可能性については捨て切れないところがあります。

そういう効果を目指した時点で、達磨大師に怒られそうですが。いや、瞑想の世界は深いので、侮るべからずとしか言えません。ただ、本物はほとんど表には出てこないでしょうね。

Posted by ぷう at 2018年02月06日 01:32
面白いですね。何故「除染は無理だけど」と、お考えになるんだろう。いや、現状は無理なんだけど、将来的には可能になるかもしれない! とか何とか言って、「その実現のために寄附してください」と言い始めると、新たな神話もとい組織の始まりになるわけですね。

そういう組織化や、教祖や組織への依存に走らず、ソフトな瞑想で心を落ち着けて、身体をリラックスさせることは、今週からの世界では、かなり役立つかもしれません。

既存の世界が崩れなかで、変わらない大事なもの、そこから立ち上がる新しい世界に焦点化するためには、集団的なパニックに巻き込まれずに、研ぎ澄まされた直感にしたがっていく必要がある。

頭に血が上った時には、深呼吸をして、まずは気を落ち着かせてから、情報を集め、冷静な判断をし、行動に移す。意識の焦点を眉間や頭頂に集めて、自分の身体感覚、感情、思考の動きを観察することによって、それらを客観視すれば、他人を見るように自分を見ることができます。

危機に陥った時に、そういうふうに冷静沈着になるか? あるいは、逆に興奮の極致でエゴを吹っ飛ばしてゾーンに入るか? これまた、人によって得手不得手がありますが、何しろ通常とは違う意識状態に入ってしまうことが、コツかなあ? サバイバルだけを考えるなら?

瞑想もがっつりやると、無意識の蓋が空いて、スピリチュアル・エマージェンシーを乗り切るのが大変なので、マインドフルネス瞑想くらいから始めるのが安全でしょう。あるいは、イメージ誘導瞑想とか、気持ちよいものから始めるのもいいかもしれませんね。

そこから先は、私にはアドバイスできません。もしその先に道が続いてあるのなら、道は向こうからやってくるでしょうから。
Posted by ぷう at 2018年02月06日 08:54
DNAは内なるものです。放射性物質は外なるものです。
瞑想が身体の活動や機能に働きかけることができても、身体の外の物理現象に働きかけることはできない。
もちろん、身体の発する熱で周りの物の温度が上がったり、万有引力で引き付ける力が働いたりはするでしょうが、干渉力は弱い。
除染が生ずるなどというのは、瞑想ではなく、妄想の産物です。
Posted by ずくなし at 2018年02月06日 10:56
なかなか面白いところに、議論が入ってきましたね。自他の区別、内と外の区別も、実は結構、曖昧なんですよね。

私も、雲古ちゃんをするたびに、悩むんですよね。雲古ちゃんが私から分離して、私ではなくなる瞬間というのは、いったいいつなんだろうか? 大腸のなかで、雲古としてのアイデンティティを確立した時だろうか? それとも、水戸黄門さんから出た瞬間に、誕生するのだろうか? いや、そもそもほとんど腸内細菌の塊だから、最初から別人? そうなると、体細胞よりも人口がはるかに多い腸内細菌や皮膚常在菌は、私なの? 他人なの?

ということを、毎朝、雲古をするたびに悩むので、トイレの時間が長くなる、、、いえいえ、そんなことはありません。

というわけで、内部被曝で体内に取り込まれて、DNAを構成しているトリチウムは、私なのでしょうか? それとも他者なのでしょうか? そして、瞑想でそのトリチウムをコントロールして無害化することは可能でしょうか?

いや、瞑想による除染なんて妄想だとも言えるし、そもそも、自他の区別、内と外の区別そのものが、恣意的なものに過ぎず、妄想だとも言えるし、そうなるとこの世の中の分離は、すべて妄想であり、すべては相互依存していて切り離せないのだ! という2500年前の変なおじさんの結論になってしまうし?

ほんと、瞑想の世界に首をツッコミ始めると、迷走が止まりません。ただ、人間の意識の力は、本当に未知数で、その可能性については、ほとんどわかっていません。というわけで、個人的には、「妄想」と片付けるだけの知見すらないので、むにゃむにゃ言うことしかできない?! というのが現状です。

ゾクチェンの虹の身体の悟りとか、日本でも仙道の屍化仙とか、内なる身体への働きかけだけを見ても、現代科学や常識では説明できないことがたくさんあります。と言っても、私もこの目で見たわけではないので、話半分ですが。
Posted by ぷう at 2018年02月06日 12:14
ぷうさん、鋭いですね、やはり人の持つている直感の力は偉大です。直感で私は、福島原発3号機の巨大な核爆発による被爆から東京にいた妻の兄家族を助けることができました。人間の意識の力は、無限です、鍵は意識の拡張と変容ですね。これができるのは、カバラとカバラ魔術と生命の樹の研究と実践です。日本では、カバラをやつている人は50人ぐらいです。
Posted by 西 亨 at 2018年02月06日 18:14
瞑想や意識、意念については、西さんやよんたさんの方が詳しいかと。私も実践の方はしなくなって久しいので。

誤解を生むといけないので、最後に言っておきますが、いくら瞑想によって物理的現実を変えられる、あるいはその可能性があると言っても、まず、物理的な次元で、合理的な思考に基づく対処を抜きにして、いきなり形而上学的な対応に頼るのは、おかしいだろうと言うこと。

瞑想に限らず、宗教家の方の家族がぐちゃぐちゃというのは、有名な政治家や学者や経営者の家族がぐちゃぐちゃなことが多いのと同じく、よくあることのようです。それは、直感、思考、感情、身体感覚、さらには社会性や倫理性などのうち、どれか一つの能力だけ肥大してしまう結果だと見ています。

これらがバランスよく発達すること、あるいは、後からバランスをとるように努力することが、人間のホリスティックな成長という意味では、必要不可欠になりますが、現在の学校教育にそういう視点が根付いているとは思えません。

まあ、こんなことを述べても、それで何が変わるということもありません。社会全体の洗脳が進むなか、私がこの社会に、そしてこの世界に存在し続ける意味は、もうないのだろうなあ? と思ったり。来たるべき新時代に向けて学んできたことが、無駄になってしまうのは残念ですが、まあ、99の実現しなかった現実の上に、1の現実が成り立つというのも事実ですから、仕方ないことなのでしょうね。

いや、久しぶりに朝日新聞を読んで、まったく中身がないのに、絶望感を深めました。それでも読売や産経よりはマシなんでしょうがね。
Posted by ぷう at 2018年02月07日 11:55
いつも思うのですが、結果はもちろん重要ですが、過程もすこぶる重要だということです。結果オーライの棚ぼた手抜き思考は、少なからず結果の価値を毀損してしまいます。風前の灯状態の戦後の棚ぼた民主主義が、悪い意味でのいい例です。妄想が入り込むのもそういった所ではないでしょうか。

瞑想を否定したりはしませんし、とても有意義な手法だと理解しているつもりです。瞑想にかけるのと同じエネルギー、瞑想によって整えられたエネルギーを実践にも振り向けることをお願いしたいと思います。結果の価値を認識するためにも、現実の行動への反映が、やはり必要ですし、本来自ずとそうなるものだと思っています。
Posted by SY at 2018年02月07日 21:58
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