過去の記憶に囚われるか、未来の創造に自分の思考能力を用立てるか?: ずくなしの冷や水

2016年07月03日

過去の記憶に囚われるか、未来の創造に自分の思考能力を用立てるか?

2016/7/3のぶうさんの投稿を掲載する。少し難しかった。引用開始。

最近は、『インターステラー』から始まって、『アバター』、『カウボーイ・ビバップ』、『プラテネス』と、宇宙ものの映画やアニメばかり見ています。というか、朝の5時から夜の8時まで、明るい間は仕事でバタバタ、でも12時から14時までは暑すぎて仕事にならないし、、、で、夜は宇宙で息抜き?

いま、宇宙とか太陽系とか地球とか、大きな文脈で変化が起きていますが、それと連関して、政治、経済、社会の変化が起きています。このとき、どのベクトルで変化を理解しようとするか? 小さな文脈のなかで自己完結する説明や因果関係を探すか? より大きな文脈のなかに、その変化を位置づけ直すか?

目先の変化のために力を尽くすのは大事なことだが、大きな文脈とのつながりを見失わないようにしないといけない。言い方を変えると、目の前の人参のなかに宇宙を見る、って、誰かさんの本のタイトルのパクりですが(≧へ≦)

コメントでダーウィンを取り上げている方がおられましたが、私はラマルキアンの上に、最近はインテリジェンス・デザイナー説に与しているので、ちょっとピンと来ませんでした。

というか、人間は猿から進化したんじゃなくて、宇宙人によって遺伝子操作されて生み出された存在だ、みたいな古代史がディスクロージャーされたときに、『ふーん、なるほどね!』とついていける人は、どれくらいいるだろうか?

まあ、なんせ学校で教えられることなんか、適当なもので、真理など関係ありませんから、新しい仮説を提示されたら、古い仮説や常識は捨てて、どんどん飛びついちゃってください。

大学で教えていたときに、学生が帰納法と演繹法の違いや、相関関係と因果関係の関係についてすら、学んでいない、というか大学までの教師が誰もそれを教えてこなかったことに気づいて、愕然としたことがあります。

思考とは何か? 具体的にどういうふうに考えたらよいのか? 思考による認識の限界はどこにあるのか? 記憶と思考は、どう違うのか? 

こういうことを一切教えずに、『考えなさい!』 そして、教師の想定した解答が再生されたら○、それ以外なら×。つまり、教師の頭のなかでも、記憶の想起と、論理的な思考とが、ごっちゃになっている。

そして、ネットやスマホの時代になって、あらゆる情報をワンタッチで検索し、画面上に投影できるようになって、人々はますます考えなくなっているように思える。

そんな状況のなかで迎えつつある、人類史の非連続的変化。『考えるな! 感じるんだ!』で乗り切れればいいけど(=^0^=)/

プログラムはすでに変化していて、その変化が現実というスクリーンに投影されるまでの、わずかなタイムラグ。いま、私たちは、そこの隙間時間を生きているような気がするんだけど。

画面上の変化と、プログラムの変化、さらにプログラマーの変化。どのレベルでも変化についての説明はできるが、全体の連関を考えないと、全体像は見えてこない。

はて? 何を言いたかったのか? いや、もう、あまり言うこともないんですよね。ウカノミタマノオオカミは、生成化育の神様だそうですが、ずっと変化の原理と技法を追いかけてきて、結論的には、変化は創造のヴァリエーションに過ぎない、治療も改革も、創造によってしか、なしえない!? というところまで行きました。

古い秩序の崩壊に目を奪われるか? それとも新しい創造に注目し、参画するか? 過去の記憶に囚われるか、未来の創造に、自分の思考能力を用立てるか?

決めるのは、あなたです。
posted by ZUKUNASHI at 23:11| Comment(0) | 社会・経済
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