福島第一原発事故時 近傍市町の避難はこんなふうに進められた: ずくなしの冷や水

2015年09月19日

福島第一原発事故時 近傍市町の避難はこんなふうに進められた

次はMapionの地図に加筆。町村とF1と道路の関係がポイントです。
ピンクが国道114号、富岡街道。水色が国道288号、都路街道


次に下の2枚の写真をご覧ください。2011/3/12早朝の撮影によるものです。




片側の車線だけ車が連なっているのが分かりますか? この場所は、双葉町から県道256号を西に走り、その後北上して常磐自動車道の下を抜けてさらに北上する車列を衛星写真が捉えたものです。画像は、Google Earthのスナップショットです。

一番上の地図で言うと常磐道浪江インターの少し下に高瀬川、常磐自動車道と書いてある辺りです。ここを走っている方は、自主避難の方が多いと見られます。3/12の早朝にすでに避難行動を起していた方も多かったのです。

F1近傍の住民がどのようにしてF1の状況を知り、どう誘導され、どう行動したのでしょう。まずは、公的な記録をお読みください。

福島第一原子力発電所事故による原子力災害被災自治体等調査結果
(平成24年3月 全国原子力発電所所在市町村協議会原子力災害検討ワーキンググループ)から抜粋引用。

双葉町
・3月11日午後8時50分の2km圏内の避難指示によって原子力災害と認識
・3月12日午前6時29分に国から、FAXで10q圏内の住民避難指示を受けた。
・防災行政無線と広報車1台で、住民広報を行った。
・自家用車、自衛隊の車両、ヘリコプター、国が用意したバスなどで避難した。
・国道114号線を使用し避難するよう住民広報したが、避難道路は大渋滞した。
(双葉町の町長は、事故後マスコミ等を通じて積極的に発言した井戸川氏でした)

大熊町
・防災行政無線や広報車などを用いて住民広報を行った。
・防災行政無線が一部不通の箇所については、消防団を通じて連絡した。
・3km圏内については、津波により早期に町内施設へ避難をしていた。
・10km圏内については、隣接する田村市など27箇所へ避難したが、大熊町が 避難情報を入手する以前に現場にて他の機関が避難を指示したため、一部で 混乱が生じた。
・避難については、国土交通省が手配したバス50台、自衛隊車両、自家用車などで避難した。
・避難ルートは、国道288号線を利用したが、幅員が狭く、他町村からの避難 車両も流入したため、大渋滞した。
・往復1時間程度のところで3時間かかった。
・警察の誘導により、一部の住民が川内村方面へ避難した。

・必要な情報が伝わらず、11日夜にはそこまで危機的とは考えていなかった。何故危機感が働かなかったのかが反省点。(大熊町町長)
・1台目のバスに乗り切れず、2台目を待ったが、朝から準備し、避難所に着いたのは2時頃。それまで食料も何もなかった。また、当日は、おにぎり1個と ペットボトル2本であった。(避難民)
・12日朝の6時頃にテレビで避難指示があったが、本当かどうか役場に問い合わせても分からない状態。東電ならば車で10分の位置に事務所があったので、 東京電力鰍ェ広報に来れば、パニックは起きなかったはずだ。(避難民)
・役場の避難指示はどうなっていたのか。最初は、田村に避難してくれと言ったが、バスが満杯のため乗れず、一旦、家に薬を取りに帰って戻ると、マスクを付けた人が川内に行けと指示された。(避難民)

(大熊町町長は、原発立地自治体であるにもかかわらず、原発事故に関する危険性の認識が十分だったのか、疑問があります)

楢葉町
・町の要請により3月11日の午後10時30分頃に東京電力叶E員2人の派遣があり、以降、常駐して状況説明がなされた。
・国、県からの連絡はなかった。
・屋外に設置している同報系防災無線(屋外拡声器)、職員や消防団員の巡回により、住民広報を行った。
・3月12日午前5時44分に内閣総理大臣が福島第一原子力発電所から10km圏内の避難を指示したことから、楢葉町はその区域外ではあるものの、避難区域拡大を懸念し、災害対策本部会議を開催して検討、午前8時に町独自で全町避難指示を判断した。
・自主避難が可能な住民は、自家用車で避難した。
・いわき市まで通常20〜30分で行けるところで、約4時間かかった。
・国道6号は3〜4箇所で陥没があり、通行不能であった。
・自主避難が困難な住民については、町所有のマイクロバス5〜6台でピストン輸送した。
・避難は、3月12日午後3時頃には概ね完了しており、午後3〜4時頃に国の 手配によるバス(約20台)が役場に到着したが、施設入所者・要援護者などが2〜3台を使用するにとどまった。

(楢葉町には福島第二原発、Jビレッジがあります。福島第二原発についても避難指示が出ています)

富岡町
・福島第一原子力発電所から、第1報、原災法第10条通報、第15条通報とも 記録がなく、連絡の有無は確認できなかった。
・3月11日夜に東京電力叶E員2名の派遣があり、以降、常駐して状況説明がなされた。
・国、県からの連絡はなかった。
・3月12日早朝、福島第一原子力発電所から10km圏内の住民避難のテレビ報道及び隣接の大熊町が防災行政無線で住民避難の呼びかける放送を行っているのを職員が聞いたため、住民避難を決断した。
・避難受け入れ先は町長自ら川内村長に受入れ要請した。
・国からのバス派遣はなく、主に町所有バスや民間会社のバスによってピストン輸送した。
・避難のためのバスを十分に用意できなかったため、自主的に自家用車で避難した者もいた。
・川内村に向かう道は一本しかなく、避難道路は大渋滞した。
・通常30分のところ、3時間以上かかった。
・避難時に連絡できなかったが、区長、民生委員が自主的に避難の声掛けをした。
・病院患者は基本的に自前で準備したマイクロバスなどを使用し避難した。重病患者については、救急車で搬送した。
・ストレッチャーが必要な患者などは速やかな移動ができず、3月12日以降に 警察、自衛隊の助力で避難した。
・3月15日、福島第一原子力発電所から20km圏内の避難指示を受け、警察本部が撤退を命令した。富岡警察署員などは川俣町に退去するとのことであったが慰留を強く求め、最終的には警察関係者12名が残り郡山市まで先導した。
・3月11日、午後10時頃、温度と圧力が上昇という連絡があり、一睡もせずにテレビを見ていたが、国、県、事業者から連絡が来ない中で一夜を過ごした。(富岡町長)

(富岡町には福島第二原発があります。福島第二原発についても避難指示が出ています。立地町村には東電が職員を派遣したのですね)

南相馬市
・3月12日〜10月1日 市内(48箇所)
・3月15日〜 市外(188箇所)
南相馬市役所が避難区域に入っていないため、行政機能は移転せず。
・東京電力鰍ニ安全協定を結んでおらず、第1報、原災法第10条通報、第15条 通報のいずれも連絡がなかった。
・国、県からの連絡はなかった。
・電話はほぼ不通状態であり、市庁舎の通信手段は衛星電話1台のみであった。
・3月13日午前6時30分に防災行政無線、広報車などを用いて原子力災害に 伴う住民への避難指示を行ったが、被災した防災行政無線もあり十分に情報 提供できなかった。
・避難先や避難手段については福島県に依頼したが対応が遅く、独自で確保した。
・すでに国などにより他市町村の避難で使用されていたため、バスの確保は困難を極め、多くの住民は自家用車などで避難した。
・市内ではバス会社1社のみが対応可能であり、バス8台(延べ43台)で福島市へ避難した。
・病院患者については初期段階では病院による患者搬送を実施し、3月17日から 3月20日に自衛隊車両により搬送した。(市立総合病院)
・3月14日午後10時頃、駐留していた自衛隊が100km圏外への避難を呼び掛けながら撤退したことにより、市民に混乱が生じた。

(南相馬市は、3/12の21時に20μSv/hを記録しています。F1近傍の町はこの時間には多くの住民が避難していたのですが)

浪江町
住民避難経緯
・3月12日 町内(10km圏外)
・3月12日〜3月15日 町内(20km圏外)
・3月15日〜 二本松市
・東京電力鰍ニは福島第一原子力発電所に係る通報連絡に関する協定を結んでいたが、第1報、原災法第10条通報、第15条通報のいずれも連絡がなかった。
・福島第一原子力発電所から役場までは約7〜8km程度であり、道路も通行可能であったが、誰も状況説明に来なかった。
・発災数日後から東京電力鰍フ職員1人が常駐した。
・国、県からの連絡はなかった。
・防災行政無線、広報車、行政区長及び消防団を通じて住民広報を行った。
・町が直接交渉したバス会社と、独自の判断で来た民間会社のバス計5〜6台及び自家用車などで避難した。
・避難に使用できる道は国道114号線しかなく、交通が集中し、通常30〜40分のところ、3〜4時間かかった。
・3月12日に自主判断で、20km圏外への避難を指示した。
・町長、議長が3月15日の早朝に二本松市長のところへ行き、避難を受け入れてくれるよう頼み、同日、一斉避難した。
・福島県にバスを50台要請したが、結局来なかったため、独自に民間バスを手配した。
・ホテル、旅館などの二次避難所の数が220箇所にもおよび、職員が配置できず、情報伝達ができなかった。
・大変混乱しており、役場として要援護者の対応は不可能であった。
・町内に要援護者施設が2施設、約200人が入所しており、県がバスを手配するも結局バスは来ず、各施設で独自に対応した。
・町内には、個人病院が1箇所あるが、当初、院長は重症患者が多く動かすことのリスクから避難を拒んでいたが、再三説得し避難した。
・避難道路としては、国道6号線、114号線、288号線があったが、国道6号線は陥没して通れず、福島第一原子力発電所に近づく288号線は使えない。結局、避難に使用できる道路が、国道114号線一本しかなかった。(浪江町長)
・結果、大渋滞となり避難者がばらばらになってしまった。(浪江町長)
・国や県から避難指示があれば、高線量の地帯に留まることはなかったと思う。(浪江町長)
・避難所への炊き出しを実施した際に、あまりにも人数が多くて配れなかった。(浪江町長)

(最初の地図で分かりますが、津島地区は浪江町の西端にあり川俣町に接しています。浪江駅の近くでは、燃料棒の破片と見られるものを人が回収していたとの説もあり、早い段階で津島に移動したのは正しかったのではないかと思いますが、濃厚なプルームは津島の方向に飛んできました)

次にいろいろなルポやインタビューの記事から避難関連部分を拾い出し、上の公的記録や線量率の推移と照らし合わせて見ます。

最初に MURAYAMA YOSHIKI WEB SITEの記事に津島地区に住む酪農家の話が載っています。

3/12、いつもより30分遅く起きて5時半ころに外を見ると、すでに自宅前の国道114号をぞろぞろと車が走っているのが見えた。

浪江町は3/12、津島地区に災害対策本部を移す判断を下し、午前6時半ころに防災無線等を使って避難を呼び掛けた。
 浪江町では町民の9割に相当する約19000人が避難対象となり、町が用意したバスだけでなく自家用車で多くの住民が津島地区を目指した。
 国道114号は避難する住民の車で渋滞し、大熊町から津島地区へ避難した女性は「6時間半近くかけて津島にたどり着いた」という。

・・・引用終わり・・・

2011/3/12の朝5時半頃、浪江町の西はずれの富岡街道を車両がぞろぞろと走っていたのです。最初の2枚の写真に写っている車両は富岡街道に出ようとしています。この時間の衛星画像では、双葉駅前に大型バスが集結しているのが見られます。



避難車両が増えるのは、この後です。数少ない西に通じる道路は、大変な渋滞になったでしょう。

次に、福島 フクシマ FUKUSHIMAの「原発事故 そのとき病院が直面した現実――ある医療従事者の体験」に富岡町の今村病院医療スタッフの話が載っています。


翌日12日の1号機の爆発。そういうことが起きたということを聞いたのは、3時半過ぎぐらいかな。
 「何やってんだ」という感じでタイベックを着た警官が跳びこんで来たのが、たぶん、初めての情報だったと思う。
 テレビなどの情報はなぜかなかった。東電からもなかった。役場からもなかった。
警官が来て「爆発した」と言うのと、避難要請的なことは同時進行だったんだと思うのね。大型のバスが2台来て、「それに乗って、逃げて下さい」という言い方だった。
 でも、そもそも、避難なんて無理。国とか県は各病院の自力で、みたいなことを言ってきたわけだけど、どう考ええても不可能。うちの病院の患者さんたちを動かすなら、患者さんの数倍の人と車を投入して、ものすごい時間をかけてやらないと。

・・・引用終わり・・・

上の公的資料の記録では、富岡町について「病院患者は基本的に自前で準備したマイクロバスなどを使用し避難した。重病患者については、救急車で搬送した。ストレッチャーが必要な患者などは速やかな移動ができず、3月12日以降に 警察、自衛隊の助力で避難した」とあります。

富岡町についての公式資料の記述は実態とズレがあるようです。避難の決定時刻が書いてありませんし、病院などには連絡が来ていなかったようです。役場は、3/12午後4時に撤退しました。

さらに、ルポなどの記録を探して公式記録を検証してみる予定です。

先に進みましょう。避難者の被曝状況です。

大熊町大野のMPでは、3/14の深夜まではせいぜい数μSv/hまでしか上がりませんでしたが、3/14の日付が変わる直前に40μSv/h、3/15の11時に390μSv/hを記録しています。このピークをつけた頃にオフサイトセンターの保安院職員は撤退の準備をし正午ころに福島市に向けて出発しています。

双葉病院などの患者や収容者を除けば、多くの人は3/12の朝に町を後にしたでしょう。学校のグラウンドなどに停められた車の数からもそのように判断できます。そうであれば、大熊町地内で線量率が大きく上昇した3/15の時点で町に残っていた人は多くはなかったと見られます。

2011/3/27に大熊町地内で被曝した遺体が共同利用農機具倉庫の駐車場で発見されています。この駐車場にも車を停めて避難する人が複数いました。ほとんどの人が避難している中でなぜこんなところで被曝したのかと疑問を感じますが、車を取りに来て強力なプルームに遭遇し、内部被曝により亡くなったのではないかと、筆者は推測します。

3/12の避難者も被曝の恐れがないわけではありません。避難ルートの都路街道の脇にある山田のMPでは3/12の昼頃に数十μSv/hを記録していますので、遅く出発した人はこのプルームと遭遇した可能性があります。



双葉町は少し気になることがあります。双葉町のMPとしては、上羽鳥、新山、郡山のMPの値が参照できますが、F1の北に位置するこれらの地域では、線量率上昇が早かったのです。1号機ベントの影響です。

特に上羽鳥の上昇は大きく、午後上羽鳥を通過した人の中には強く被曝したおそれもあります。


冒頭2枚の写真の右下に上羽鳥のMPがあります。


新山は、双葉町の市街地にあります。ここでは、3/12、16時に537μSv/h、17時に904μSv/h、18時に822μSv/hと著しく高い値を記録しています。

そしてグラフのパターンが他と違っています。ピークをつけた後、線量率の低下が少ないのです。上羽鳥と比べても違いが分かります。これは、他のMPでは希ガスの影響が大きいのに対して、新山では粒子状のものが降下したことによると推定されます。

晴天時のプルームは、通り過ぎればすぐ線量率が下がりますが、降雨時のプルームは、その後の線量率が高止まりします。これも粒子状の放射性物質が降下沈着するからです。

新山で3/12の午後、局地的に降雪があったのかもしれません。ですが、筆者は降雪があったにしても、新山を襲ったプルームは希ガスのほかに粒子状の放射性物質を大量に含んでいたと推定します。

次の画像は、3/12午後の1、2号機ベントの際の排煙を鮮明に捉えています。もちろん水蒸気もありますが、ドライベントになっていましたので粒子状の放射性物質を大量に含んでいたはずです。



次の画像では排煙が黒くなっています。重金属が気化した微粒子ですから煙は黒くなります。



浪江町は、 MURAYAMA YOSHIKI WEB SITEの記事によると、午前6時半ころに防災無線等を使って避難を呼び掛けたとあります。富岡街道に車が集中したとのことですが、浪江駅より東部にある幾世橋の住民は、昼までには避難したでしょう。

浪江町については、情報がないままにまずとにかく西へと津島に避難し、3月15日の早朝に二本松市長の避難を受け入れ可の回答を得て同日、一斉避難しています。

しかし、残念なことに、3/15の午後からプルームが福島市の方向に流れます。福島市のMPは24μSv/h程度を記録していますが、個人が測定した結果では、時期と場所は不詳ながら福島市内には67μSv/h検出した場所もあったといいます。



津島から二本松までの避難が早い時間に終わったことを願うところですが、結果的には津島に残留するよりは被曝が内輪に済んだことは確かなのではなかろうかと考えます。

2018/10/21追記





posted by ZUKUNASHI at 20:47| Comment(0) | 福島原発事故
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