大熊町の避難はうまくいったのか: ずくなしの冷や水

2015年09月09日

大熊町の避難はうまくいったのか

2015年09月08日 2011/3 大熊町地内遺体発見地点の衛星画像の記事を書いていて、震災翌日になぜ車両がここに集まったのか、車を置いてみんなどこへ行ったのかが疑問だった。

Google Earthから(以下同じ)
2011/3/12時点


他の場所を調べると、集会場や学校のグラウンドにも車両が集結している。


右側の黒い屋根は地区の集会所。激しい余震で家が壊れたり立ち木が倒れたりして車が壊れることを心配して安全な場所に置いたのだろう。


切り出した画像の比較では、2011/3/14に車の台数が最も増えている。



2011/5の半ばになっても台数はほとんど減っていない。

2011/7には減り始めている。危険を冒して車を取りに来た方が多かったのだろう。そして、その車は会津若松市などに走っていったはずだ。

2014/3/31になっても何台かの車は残っている。持ち主が回収を諦めたのか、あるいは主がいなくなったのか・・・。


3月12日 大熊町全町避難指示、田村市へ避難開始。
大熊町の双葉病院からは、2011/3/12、1号機水素爆発の2時間前に第一陣209名が三春町ら向けて出発、翌3/13いわき市に避難。
2011/3/14、自衛隊の救援で約130名の患者らがバス8台で避難。
2011/3/15午前1時に院長等強制的に川内村に避難させられる。
2011/3/15、自衛隊の救援で午前10時〜正午、最後の90名を避難させるが、亡くなる方が相次ぐ。最寄の大野MPでは、3/15午前10時台に約400μSv/hを記録している。

住民は、バスで逃げた方も多かったようだ。だが、バスによる避難の前に車を安全な場所に置くなど準備をしている。幸い、3/14日中まではMPの測定値は大きくは上げていない。

車の集積箇所の台数が最も増えたのは2011/3/14と見られ、遺体が発見された農機具格納庫では3/17時点で台数が減っている。3/15と3/16の昼前後に特に強いプルームが襲っている。

農機具格納庫の倉庫の前に自転車が置かれている。


遺体の汚染状況からすると3/15の午前(1時間平均値最高400μSv/h)に被曝した可能性が強く、車両回収時にプルームが襲来したのではないか。


2011/3/12〜3/16


大熊町住民に白血病が多発しているという。
posted by ZUKUNASHI at 12:46| Comment(0) | 福島原発事故
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