2011/3/27 大熊町で被爆遺体確認 関係情報: ずくなしの冷や水

2015年09月02日

2011/3/27 大熊町で被爆遺体確認 関係情報

この記事は、筆者のメモ。

2011/3/11地震発生


事故発生前後の大野測定局スペクトルデータの変化から引用
平成23年3月11日14:00図1(事故発生前)
14:46地震発生
15:35津波第2波(約14m)福島第一原子力発電所に到達
12日10:071号機ベント開始
14:00図2(低エネルギー領域が増加)
15:36 1号機水素爆発
13日0:00図3(複数のピークを確認)
8:41 3号機ベント開始
11:00 2号機ベント開始
17:30図4(ベースラインが上昇)
14日11:01 3号機水素爆発
22:30図5(ベースラインがさらに上昇、個別のピークが判別不可能)
15日6:00頃4号機爆発、2号機で爆発音
10:30図6(低エネルギー領域が飽和(測定可能上限を超過))

2011/3/28NHKの報道から
・福島第一原子力発電所から5キロ余り離れた大熊町の作業場の敷地で「男性の遺体がある」という通報
・27日、福島県警察本部の機動隊員など15人が防護服で現場に入り、遺体を確認
・遺体からは除染が必要な量の放射性物質検出。表面で10万cpm超。
・半径10キロ以内では、警察は原則として遺体の捜索などの活動は行っていない。
・具体的な情報がある場合は、安全を確保したうえで、10キロ圏内に入ることもある。


男性は、作業場の駐車場に仰向けで倒れていた。
遺体が確認された具体的な場所、遺体の身元については、情報がない。
F1から20km圏内は、2011/3/22から立ち入り禁止。
大熊町の双葉病院からは、2011/3/12、1号機水素爆発の2時間前に第一陣209名が三春町ら向けて出発、翌3/13いわき市に避難。
2011/3/14、自衛隊の救援で約130名の患者らがバス8台で避難。
2011/3/15午前1時に院長等強制的に川内村に避難させられる。
2011/3/15、自衛隊の救援で午前10時〜正午、最後の90名を避難させるが、亡くなる方が相次ぐ。







http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011033001001226.html

2011/03/30 21:41 【共同通信】
福島県警は、福島第1原発から約5キロの同県大熊町で27日に見つかった遺体を管理する模様を撮った写真を30日、報道陣に公開した。遺体の放射線量が高く、被ばくする危険があったため、防護服に身を包んだ警察官が収容を断念、白い遺体袋に入れて付近に安置する瞬間をとらえている。
 警察庁によると、遺体があるとの通報を受け、県警機動隊員や検視官、放射線計測班ら15人が駆けつけ遺体を発見。持参した測量計で遺体の表面を測定したところ、除染が必要な基準を上回ったとしている。
 遺体は地震や津波発生直後から、原発事故による放射線を浴び続けていたとみられる。

河北新報ニュース 2011年05月20日金曜日
◎搬送を阻む放射線/基準すらなく撤収
 東京電力福島第1原発が立地する福島県大熊町で、震災の死者とみられる男性を収容しようとした県警が遺体の放射線量が高いため搬送を断念したと、3月29日に報じた。遺体は4月1日に収容された。第1原発20キロ圏内で行方不明者の本格捜索が始まったのは、震災から約1カ月後。この間、救出の道は閉ざされ、数百もの遺体が置き去りにされていた。
 大熊町内、福島第1原発の南5〜6キロにある作業所の敷地内で、成人男性の遺体が見つかったのは3月27日だった。
 「亡くなっている人がいる」。通報を受け、福島県警の機動隊員や検視官ら15人が現場に向かった。放射能を警戒し、放射線計測班も同行した。
 遺体の表面の放射線量を計測すると、水で洗い流す「除染」が必要な10万cpm(cpmは放射線量の単位)を大幅に超えていた。
 第1原発1号機の爆発が起きた3月12日、原発から20キロ圏に避難指示が出たのを受け、県警は捜索や遺体の搬送を中断していた。圏内に入るのは緊急性が高い通報があった場合だけだ。
 汚染された遺体をどう扱うべきか、その基準さえなかった。
 機動隊員らは遺体を遺体袋に入れた上で、建物内に移し、撤収するしかなかった。
 男性の遺体収容を断念した後、県警は厚生労働省と対応を協議。(1)業務で放射線を扱う人の許容限度を参考に、捜索が可能かどうかを判断する(2)遺体表面の放射線量が10万cpmを超えた場合は、現場で除染してから搬送する―ことを決めた。
 5日後の4月1日、機動隊員や検視官、放射線計測班らが再び大熊町の現場に入った。外気から遮断して安置していたため、遺体の放射線量は下がり、除染の必要はなくなっていた。南相馬市に搬送。外傷はなく、病死と診断された。
 県警や警視庁が、南相馬市の南部や楢葉町など原発10〜20キロ圏で、本格的な捜索を始めたのは4月7日のことだ。大熊町や浪江町請戸など10キロ圏内の捜索の開始は14日まで遅れた。
 二本松署地域課の吉津敬介警部補(35)は、4月中旬から請戸での捜索に加わった。防護服にマスク。「動きを制限され、手でがれきを一つ一つどかした。放射線の数値も気になり、神経をすり減らしながらの過酷な作業だった」と振り返る。
 原発周辺を中心に、福島県では約10万人が避難生活を強いられた。行方不明の家族を捜す間もなく、古里を離れざるを得なかった人たちは、悔しさ、もどかしさを募らせながら捜索活動の開始を待つしかなかった。
posted by ZUKUNASHI at 11:30| Comment(0) | 福島原発事故
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